2014年度第2回(第11回)映像テクスト分析研究会【6月21日】

2014/05/27 映像テクスト分析研究会

****************************************************
日本映像学会 映像テクスト分析研究会 
2014年度第2回(11回)研究発表会 開催のお知らせ
****************************************************
  
日本映像学会会員各位
  
映像テクスト分析研究会の研究発表会を下記のとおり開催します。
今回はヒッチコックの『ロープ』(1948)に関する発表2本です。
みなさまのご参加をお待ちしています。
  
日本映像学会映像テクスト分析研究会
代表 中村秀之
   
■日時===========================================
2014年6月21日(土曜日)15:00開始~18:30(終了予定)
  
■会場===========================================
成城大学3号館1階312教室
(小田急線「成城学園前」駅北口より徒歩5分)
〒157-8511東京都世田谷区成城6-1-20
交通案内 http://www.seijo.ac.jp/access/index.html
  
■発表者・表題===============================
小河原あや(成城大学)
「ヒッチコック『ロープ』における長廻し移動撮影、映画空間、
精神の遍歴——バザン対ロメール&シャブロルの議論を再読する」 
木村建哉(成城大学)
「神を演じる「同性愛者/全体主義者≒共産主義者」:
(対抗)アンチ・クリスト映画としてのヒッチコック『ロープ』」
  
■発表要旨
小河原あや(成城大学)
「ヒッチコック『ロープ』における長廻し移動撮影、映画空間、
精神の遍歴——バザン対ロメール&シャブロルの議論を再読する」
ヒッチコックの『ロープ』は一本の映画全体を、基本的にカメラ移動と長廻しで撮影し、目立たないように8回のカットつなぎを入れて作られた作品である。この長廻しについて、アンドレ・バザンは古典的な切り返しの連続に過ぎないと批判した(“Panoramique sur Hitchcock”, 1950)。しかしバザンに反対したエリック・ロメールとクロード・シャブロルは、バザンが評価したウェルズらのディープ・フォーカスこそは、古典的な切り返しと同様に物語上重要な事物を観客が順に観ていく空間に過ぎないのであり、『ロープ』において新しいのは「時空間における連続性の感覚」なのだと論じた(Hitchcock, 1957)。これらの議論を再読しつつ、本発表は、『ロープ』の中で①一つの部屋から別の部屋へと主人公達が移動するところ、②切り返しに準じる仕方で諸事物・顔が映しだされて行くところ、③長廻しの中で実は「視線つなぎ」が為されているところ、の三つの映像表現を中心に分析する。それによって、長廻し移動撮影で構築される空間全体と、その中に生きる人物の精神とがいかに共鳴して示されているか、ひいては時空間の連続性が現実主義、サスペンス、そして主人公達の精神の遍歴といかに一体であるかを考察するのが、目的である。
 そこからさらに本発表は、1.バザンの議論が諸持物の均質的な存在という外面・身体性に焦点を当てているのに対して、ロメールとシャブロルは身体的存在の向こうに浮かび上がる精神の在り方を重視していること、2.バザンはそのような存在を論じる時に、基本的にフレーム構成を変えぬ一ショット内の空間を見ているのに対して、ロメールとシャブロルは存在と、フレームを変えていく空間との関係を問題にしていることに注目して、「映画とは何か」を空間の観点から問う。

木村建哉(成城大学)
「神を演じる「同性愛者/全体主義者≒共産主義者」:
(対抗)アンチ・クリスト映画としてのヒッチコック『ロープ』」
ヒッチコック『ロープ』(1948年)においては、既に多くの論者(e.g. ロメール&シャブロル、ドナルド・スポトー)が指摘しているように、ブランドン(ジョン・ドール)とフィリップ(ファーリー・グレンジャー)という二人の若い殺人者達が同性愛関係にあることは、プロダクション・コードを憚って暗示されるに止まっているにはせよ、かなり明瞭に見て取ることが出来る。
 これに加えて、発表者は、彼ら二人が、神を恐れず、自らが神に成り代わろうとする(神を演ずる)「全体主義者≒共産主義者」として表象されていることを明らかにする。
 発表者は更に、ヒッチコックが観客を感情移入へと導くのは、探偵役のルパート・カデル(ジェームズ・スチュアート)に対してではなく、殺人者二人に対してであること(言い換えれば、主人公はルパートではなく、彼ら二人であること)、又、殺人の罪責は本来ルパートにあり、殺人者二人にはないこと(主人公ではないにもかかわらず、映画の中心はルパートであり、言い添えればもう一人のある人物であること)が映画において示されていることを明らかにする。
 こうした分析を通じて、『ロープ』が、単に犯罪が露見して犯罪者達が処罰されることになる映画ではなく、むしろ反キリスト者(アンチ・クリスト)であることの不可避性(神を信じることの不可能性)と、にもかかわらず最終的にはアンチ・クリストであることの不可能性(神を信じずにいることの不可能性)とをともに描いた、(対抗)アンチ・クリスト映画であることが判明するであろう。

************************************************
お問合せ先:
日本映像学会 映像テクスト分析研究会
代表 中村秀之
〒352-8558 埼玉県新座市北野1-2-26
立教大学現代心理学部映像身体学科
e-mail:hideyukin■rikkyo.ac.jp(■を@に変えて下さい)


報告:会報第168号(2014年10月1日)43頁