2025/02/21 写真研究会
日本映像学会写真研究会 第14回研究発表会
▼開催概要
日時
2025年3月22日(土) 13:30開始 17:00終了予定(日本時間)
場所
同志社大学今出川キャンパス 良心館RY208教室、およびリモート配信
参加方法
*事前申し込み制
上記会場にての対面とリモート配信でのハイブリッド方式で開催いたします。会場参加、リモート参加とも、こちらのフォームからお申し込み下さい。いただいたメールアドレスに参加方法をお知らせします。
▼報告者・報告内容
■研究発表1
半田ゆり(コロンビア大学大学院美術史専攻/バーク日本美術研究センター)
「小川一真撮影の文化財写真と明治における日本美術史概念の成立」
■研究発表2
宋釗(復旦大学新聞学院大学院ジャーナリズム&コミュニケーション専攻)
「宣伝における反復と変化――写真壁画『撃ちてし止まむ』の分析を通して」
■研究発表3
五十嵐美憂(大阪大学大学院人文学研究科芸術学専攻)
「福島晶子の「男性ヌード」を振り返る」
▼報告の要旨
■研究発表1
半田ゆり(コロンビア大学大学院美術史専攻/バーク日本美術研究センター)
「小川一真撮影の文化財写真と明治における日本美術史概念の成立」
明治期の日本人写真家・小川一真(1860-1929)は、米国での写真スタジオ勤務を終えて日本に帰国した1884年以降、仏教関連の貴重な文化財や日清・日露戦争、明治天皇の大喪儀など、国家規模の重要な出来事を撮影する事業を次々に委託され、これに従事した。これまで写真史の領域では、小川の多岐にわたる業績が網羅的に研究されてきたが、明治政府の国家事業として撮影された彼の写真の政治的意義に関しては詳細な検討が待たれている。一方、近年進展の著しい英語圏の明治美術研究においては、写真はしばしば非芸術として議論の対象から除外されるか、その主要な作品とはみなされておらず、日本美術史上の展開において写真は統合的に議論されてこなかった。
そこで本発表は、小川一真が明治20年代に撮影した文化財写真の分析を通じて、彼の写真が明治期に試みられた日本美術史概念の確立に不可欠であったことを論ずる。1888年から89年にかけて京都・奈良に所在する仏教寺院を中心に行われた近畿宝物調査において、小川は唯一の写真師として宮内庁に任命され、廃仏毀釈運動のために荒廃・散逸の危機に直面していた仏像・仏具等の撮影を行なった。この時撮影されたコロタイプ写真は帝室博物館に収蔵され、岡倉天心(1863-1913)らが創刊した美術研究誌『国華』や、後に1900年のパリ万国博覧会に出品された最初の日本美術史の書籍『Histoire de l’art du Japon』に用いられることとなる。小川の文化財写真は、明治政府が推し進めた「日本美術史」の視覚化において、鍵となる役割を担っていた。また、小川が米国・ボストンの写真スタジオで1882年から84年にかけて習得したコロタイプ技法および1887年に福島県白河で米国人天文学者らと行なった皆既日蝕撮影が、これら文化財写真の撮影に必要な技術的素地を用意した。さらに、近畿宝物調査に先んじて1872年に行われた壬辰検査において、横山松三郎(1838-1884)が撮影した文化財写真との比較を行うことで、明治期の文化財調査における写真使用の歴史的変遷とその意義を検討する。
明治政府による写真使用は、文化財保存・日本美術史推進の文脈にとどまらず、明治天皇をはじめとする皇族の肖像や植民地の開拓記録など多岐に及んだ。その多くを手がけた小川の検討を通じ、日本初期写真史研究の更なる展開が期待される。
■研究発表2
宋釗(復旦大学新聞学院大学院ジャーナリズム&コミュニケーション専攻)
「宣伝における反復と変化――写真壁画『撃ちてし止まむ』の分析を通して」
1943年、日本陸軍省は第38回陸軍記念日に関わる一連の活動を実施したが、これらの活動の中心で展開されたのは、陸軍省情報部が策定した「撃ちてし止まむ」という決戦標語であり、これによって対外侵略を鼓吹し、民族感情を煽ることを目的としていた。この当局の呼びかけに、社会の各分野における管理者や実施者は、新聞、雑誌、建築物、講演などの様々なメディアを通じて積極的に応えた。なかでも、写真作品として広く知られているのは、1943年3月10日に東京日本劇場の正面に掲出された、金丸重嶺が撮影、山端写真研究所が制作した写真壁画であった。この写真壁画は当時の民衆に未曾有な視覚体験をもたらした。それは3点の写真原板を合成して作られたフォトモンタージュであった。本発表では、関連作品の比較を通じて、戦時中にロシアから伝来した独特な表現手法としてのフォトモンタージュが、次第に国家に奉仕する創作手段へと変化し、表現上の独特性を喪失していったことを検証した上で、それがフォトモンタージュの文脈における転換点にあったことを主張する。
これまでの研究では、その写真壁画を独立した作品として論じており、さまざまなメディア、作品の間でどのような相互影響が生じたのかという問題や、その帰結に関する研究は、十分ではなかった。本発表は、戦争期の宣伝において同一イメージが繰り返し使用される問題について議論する上で、D・I・カーツァー(David I. Kertzer、1948-)が提唱した「儀式行為」(Ritual Action)の概念とジュディス・ウィリアムスン(Judith Williamson、1954-)が提唱した「トーテミズム」(Totemism)の概念を用いて、陸軍記念日を中心とした宣伝活動を分析する。その分析を通して、国家主導の宣伝活動においてイメージが社会環境を形成する要素の一つとなること、そして受容者がイメージを解釈することによって自己のアイデンティティを補完・強化するとともに社会動員という巨大な儀式に参加すること、および視覚や聴覚、さらには身体の規律化を通じて前線と銃後の境界が曖昧になることを明らかにする。
■研究発表3
五十嵐美憂(大阪大学大学院人文学研究科芸術学専攻)
「福島晶子の「男性ヌード」を振り返る」
福島晶子(1943–)は1968年から69年にかけ「男性ヌード」で大きな話題を集めた写真家である。しかし、彼女の存在と作品は現在の写真史に全く姿を留めていない。本発表はその背景を考察したうえで、福島の作品と思想の再評価を試みるものである。
福島は日本大学芸術学部写真学科を卒業後、商業写真家として活動していた。かねてから男性ヌードを撮影したいという思いをもっていた福島は、機を得て1968年5月、男性向け週刊誌『週刊プレイボーイ』の企画で「男性ヌード撮影会」を行うこととなる。そして翌6月には同誌巻頭で《海から来たレオ》と題した男性ヌード作品4点を掲載した。当時前例のない、男性のヌード写真を若い女性が撮影したという事実に注目が集まり、福島は一躍時の人となる。『週刊女性』、『週刊新潮』など複数の週刊誌に福島に関する記事が書かれ、福島の回想によればいくつかのテレビ番組にも取り上げられたという。さらにその話題は大衆文化の領域を超え、写真界の中枢にも届いていた。『日本カメラ』1968年8月号の「特集 ヌードフォト その撮影と鑑賞」には、「男性存在の原型を写す」と題された福島の男性ヌード論が掲載されている。
しかしながら、大衆誌において注目されたのは作品ではなく福島自身だった。記事は福島の人物や私生活、あるいは福島の被写体となった男性に好奇の目を向けたものが大半で、作品の内容に言及される機会はほとんどなかった。また、上記『日本カメラ』に福島の作品は掲載されていない。発表者の調査の限り、他のカメラ誌にも、福島の作品が掲載され何らかの評価を受けた痕跡は見あたらない。これらのことから、大衆誌ではゴシップとして消費され、写真界からはほぼ黙殺された結果、福島の作品は正当な評価を受ける機会を得られないままに忘却されてしまったと考えられる。
福島は男性身体固有の魅力や「美しさ」に対する確たる思想をもっていた。それに基づいて作品を制作するのみならず、『日本カメラ』や『婦人公論』といった媒体でそれを書き表した。「美」とはそれまで専ら女性の身体と結びつけられてきた観念であったが、男性の身体にもそれを見出し、積極的な表現を試みた独創性や先見性は高く評価されるべきだろう。また福島は、作品の制作において被写体との協働や被写体の主体性を重んじていた。この時代、女性のヌードが男性写真家の実験や革新、自己表現の場として利用されることの多いものであったことを思えば、福島の作品はヌード写真におけるジェンダーの非対称性と力関係の非対称性との双方を覆したものとして、極めて先駆的な試みであったと評価することも可能だろう。