会長挨拶

日本映像学会第21期会長 武田 潔
「学会創立40周年、そして明日への歩み」
(2014年10月1日発行会報第168号「展望」)

 このたび日本映像学会の第21 期会長を拝命した。奇しくも本年9 月は1974 年の同月に学会が設立されてからちょうど40 年目の節目にあたる。設立当初の状況については、数年前、この会報に連載された記事によって(No. 140、 141、 143、 147)、小笠原隆夫、淺沼圭司、佐藤忠男、波多野哲朗会員が、設立の経緯や初期の困難をそれぞれに振り返っておられ、またそれを踏まえて昨今の学会活動をめぐる所見を述べておられる。私自身はこれらの先輩諸賢と違って設立時からの会員ではないが、入会したのは1981 年で、学会ができてから7 年後のことであるから、私もいまや古参メンバーの一人ということになるのであろう。
 ところで、くだんの連載記事においては、設立からしばらくの間、学会の研究活動の水準が必ずしも高くなかったことが一度ならず触れられている。実際、私が入会した頃も、率直なところ、大会での発表や機関誌に掲載された論文のすべてが高い水準にあるとは思えなかった。それどころか、当初は年4 回発行することになっていた『季刊映像』(これが創刊から第20 号までの機関誌名で、『映像学』と改称されたのは1981 年6 月刊行の第21 号からである)それ自体が、投稿論文の乏しさから所期の刊行頻度を守れず、毎号の内容も特集テーマにそって集められた依頼原稿で構成されていたが、それでも時には丸1 年以上、機関誌が発行されないことさえあった。1992 年に、当時の淺沼圭司会長による「会長指名理事」として私が初めて理事会の一員となり、あろうことかいきなり機関誌編集委員長を仰せつかった頃の状況はそのようなものであった。建前と現実があまりに乖離していた機関誌の改革が急務と思われたが、幸い、淺沼会長と当時の理事会のご理解、ご支援のもと、刊行頻度を年4 回から2 回に改め、版組を縦組みから横組みに変えるといった実務的な改定は速やかに実行でき、また特集テーマにそった依頼原稿中心の構成から、投稿論文の査読を基本とする、学会誌として当然の編集方針へ移行することについても、後を継がれた松本俊夫、岩本憲児両編集委員長のもとで、数年のうちに実現されていった。最近入会された会員の方々にはにわかに信じ難いことかもしれないが、『映像学』が現在の姿となるまでには、そうした模索と努力の積み重ねがあったのである。
 しかし、こうして学会としての体制をまがりなりにも整えたことが、そのまま本学会のまったき発展を意味しているのかと問われれば、いささかの疑問を禁じえない。総会での就任挨拶の中でも触れたが、このことに関して、上掲の連載記事で淺沼元会長が提起しておられる問題はきわめて重要である。大学に所属する研究者の会員が増え、また大学院で学ぶ学生の会員も増えたことから、学会活動におけるいわゆる“ 学術的な” 水準は高くなったかもしれないが、いやそれゆえにこそ、淺沼元会長はあえて、学会創設時に掲げられた「設立の趣意」(これは現在も学会のホームページに掲載されている)に立ち返ることを訴えておられる。この「趣意」が謳っていたのは、「写真・映画・テレビ等、媒体を中心とするジャンル的思考にとらわれることなく、あるいは学問的・創造的・技術的アプローチの違いにこだわることなく、映像と人間、映像と社会の問題を広い視野で」探究する映像研究の樹立であった。しかるに、設立以来30 余年(執筆当時)を経て、果たしてそうした目標が本学会において達成されているだろうかと元会長は問われ、学術水準の向上なるものが旧来の学問の規範によって判断されるきらいはなかったか、未知の分野に挑むよりも既存の枠組のもとで慣習的思考に安住する傾向はなかったかと、警鐘を発しておられる。そして、「いまだない映像学の樹立をめざして発足した」映像学会であればこそ、常に既存の学(discipline)のあり方を検証し、それを超える可能性を模索し続けることが肝要なはずなのに、「そのことは、すくなくとも大会の発表や機関誌に掲載される論文によるかぎり、かならずしも十分には行われていないのではないだろうか」と、抑制した語調ながらも明確な批判を呈しておられる。映画美学を専門とされる元会長が、その研究において、単に「映画」の「美学」を論じるのではなく、その基盤をなす「映像」の本質を突き詰め、それが哲学や美学や記号学などの学的体系を超え出てしまうさまを一貫して考究してこられただけに、この問題提起はいっそう鋭利で深甚なものとしてわれわれに迫ってくる。
 こうした観点から、今期の会長を務めるにあたっては次の2 つの目標をめざしたいと思う。1 つは、学会の創立以来、われわれの「学是」となってきたはずの、媒体や専門分野を超えた、映像をめぐるあらゆる探究 ―― アカデミックな学術研究も、作品制作における創意工夫も、探し求め、究める企てとしては変わるところがないはずである ―― の間の交流をいっそう盛んにすることに努めたい。無論、このことは特定の媒体や学術領域に関わる論考を排除するということではない。対象の限定や方法の選択をいっさい拒絶することは研究の意義そのものを否定することに等しいであろう。しかし、たとえ特定の学に基づく論考を手がける場合でも、自らのアプローチを特権化することなく、かつてわが恩師クリスチャン・メッツが事あるごとに口にしていたように、「いかなる方法にもそれなりの有効性と限界がある」ことを自覚しながら、当面の対象や方法から外れる事象についても関心と志向を抱き続けることが大切であろうし、そのことが常に明瞭に意識され、かつ内発的な欲求として実践されるならば、自ずから既存の学のあり方を再考し、あるいは学術と創造を通底させるような、新たな地平も切り開かれてゆくのではないであろうか。幸い、最近の『映像学』では制作者による考察が論文として掲載された例もあり、今期の編集委員会も、もちろん査読の水準は保ちつつ、そうした交流を促進する方向で任務にあたられるはずである。また、研究企画委員会においても、昨年度から導入された研究会の登録と活動費の支給に関する審査を継続することに加え、いわゆる研究系と制作系の連携を図れるような方策を検討してゆかれることになった。われらが学会の「設立の趣意」は、もしかすると地平線と同じく、憧れながらも決して到達することのできない理想なのかもしれないが、ただ座して憧れるよりは一歩ずつ歩みを進めてゆくことが意義ある行動だと信じて、この課題に取り組んでゆきたい。
 2 つめの目標としては、既成の枠組を打ち破る斬新な発想を期待する意味からも、若手会員への支援をいっそう充実させ、また研究者や創作者としての成長に寄与しうるような手立てを考えてゆきたい。既に前期理事会のご尽力により、財政状況が幾分か改善され、その果実として大会参加費の引き下げが実現されたが、現役の大学院生にとって年会費や大会参加費などの負担は決して軽いものではないであろうから、ほかにも有効な対策が採れないか、検討してみたい。他方で、先頃、重大な研究不正の事案が巷間を騒がせ、当該の若手研究者に対する指導があまりに杜撰であったことが明らかになった。もちろん、そうした指導は第一義的には本人が所属する大学院やその指導教授が責を負うべきことではあるが、学会としても、例えば『映像学』への論文投稿に際して、従来、指導教授がほとんど関与していないかの如き事例もなくはなかっただけに、それを改められるような策を講じることも一案ではないかと思う。いずれにせよ、若く優秀な人材を育成できるか否かが、学会の将来的発展を支える鍵となることは言うまでもない。会員各位のご理解と積極的な参与を切にお願いする。
(たけだ きよし/日本映像学会会長、早稲田大学文学学術院)

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