2025/06/17 関西支部
日本映像学会関西支部第103回研究会(7月5日)のお知らせ
下記の通り日本映像学会関西支部第103回研究会を開催いたします。関西支部会員に限らず多くの方の参加をお待ちしています。
日時:2025年7月5日(土)午後2時より4時頃まで
会場:関西学院大学上ケ原キャンパス F号館102教室
研究発表1:トリュフォー映画における偶発性
発表者:関西学院大学 安部孝典会員
要旨:
本発表は、フランソワ・トリュフォー(François Truffaut, 1932-1984)の長編第一作『大人は判ってくれない』において、主人公アントワーヌが少年鑑別所で精神科の女医から聞き取り調査を受ける場面の分析から始め、他のヌーヴェル・ヴァーグの作品を参照しながら、トリュフォー映画における偶発性の積極的な取り込みについて一考察を加えることを目的とする。
前述のシーンでは、まず監督のトリュフォー自身がアントワーヌ役のジャン=ピエール・レオー(Jean-Pierre Léaud, 1944- )に個人的な質問を投げかけ、その反応を映像に収めた後、トリュフォーの声だけを女医役の女性のものに吹き替えるという手間をかけている。ここでは、トリュフォーとレオーの間に構築された擬似的な親子関係から、内緒話のような親密さが醸し出され、アントワーヌの受け答えの内容には、物語上のアントワーヌとしての人生とそれを演じる生身の俳優レオー、さらにはアントワーヌ=レオーに監督トリュフォー自身の経験が混同されている。
こうした撮影時の偶発的なものの取り込みは、アントワーヌ・ド・ベックやアラン・ベルガラらの先行研究が明らかにするように、初期ヌーヴェル・ヴァーグの作品に散見される。トリュフォー映画以外でも、たとえばジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)やエリック・ロメールの『獅子座』(1962)では、街頭での隠し撮りが多用され、道行く人が好奇の目でカメラや俳優の方を見やる姿がそのまま作品内に取り込まれている。
さらに、トリュフォー映画における子どもの即興演出については、アンドレ・バザンの批評を介したネオレアリズモ映画との関係、そして街頭での野外撮影における偶発性については、トリュフォーが敬愛するジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』(1932)や『ピクニック』(1936)などの影響を指摘できるだろう。
本発表では、これまでに漠然と即興演出と言われてきたヌーヴェル・ヴァーグのひとつの特徴を、トリュフォー映画における偶発性の取り込みという観点からあらたに捉え直し、その作家主義的な意義を明らかにしたい。
研究発表2:伊藤高志の映画におけるカオスと秩序――空間とリズムをめぐって
発表者:四天王寺大学 松井浩子会員
要旨:
本発表は、伊藤高志(1956–)の作品に通底する「空間」への関心に着目し、初期の構造映画と近年の劇映画における空間表現の差異と連続性を明らかにすることを目的とする。分析の中心には、実質的なデビュー作『SPACY』(1981)と最新作『遠い声』(2024)を据え、アンリ・マルディネの空間=リズム論を理論的枠組みとして援用する。
『SPACY』においては、映像が逃れることのできない透視図法を基盤としつつも、その構造を循環的に撹乱することで画面の中に飲み込まれるような閉鎖的空間が構成される。そこでは、永遠に消失点へ到達しないさまよいが視覚化されており、マルディネが語る方向を失ったカオスの空間として捉えうる。一方、『遠い声』では、登場人物を伴いつつも物語性を抑制した構成のなかで、空虚な風景が横断される。拡がる風景空間のなかを、人物たちは依然としてあてどなさをさまよい続ける点において、初期作との連続性が見出せる。マルディネは、このような空間に秩序をもたらすものとして「リズム」の概念を提示する。
本発表では、両作品に描かれるカオス的空間と、その中で異なる仕方で形成されるリズムに注目し、作品ごとの空間的差異と、その根底に流れる空間観の持続を考察する。
会場:関西学院大学上ケ原キャンパス F号館102教室
交通アクセス:https://www.kwansei.ac.jp/access/uegahara
キャンパスマップ:https://www.kwansei.ac.jp/cms/kwansei/pdf/about/campus/nuc_map_2025.pdf
日本映像学会関西支部事務局
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