写真研究会 2022年 第8回研究発表会開催のお知らせ【4月2日】

2022/03/18 写真研究会

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日本映像学会  写真研究会
2022年 第8回研究発表会開催のお知らせ
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日本映像学会会員各位

写真研究会の研究発表会を、新型コロナウイルス感染拡大防止のため下記のとおりオンラインにて開催致します。皆様のご参加をお待ちしております。

日本映像学会写真研究会
代表  倉石 信乃

【日時】
2022年4月2日(土) 15:00 開始 18:30 終了予定(日本時間) *オンラインによる開催。

【参加方法】*事前予約制 会議システム zoom を利用して 催いたします。下記URLにあるフォームから事前にお申し込み下さい。いただいたメールアドレスに zoom の ID とパスワードをお送りいたします。
登録期限は 4月1日12時 までとさせていただきます。
申し込みURL : https://forms.gle/c52RkGXEhNNrCXC49

【発表 ・発表内容・座談会】
発表1
「伝・島津斉彬、カロタイプ写真の位置づけの検討」
安藤千穂子 京都工芸繊維大学博士後期課程

発表2
「「差意識」から写真を考える−沖縄の事例から」
亀海史明(沖縄県立博物館・美術館 学芸員)

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【研究発表の要旨】
発表1
「伝・島津斉彬、カロタイプ写真の位置づけの検討」

安藤千穂子(京都工芸繊維大学博士後期課程)

 本発表は、 薩摩藩主の島津斉彬(1809−58)が作製に関わったとされるカロタイプ写真の、日本の黎明期における位置づけを検討するものである。この紙陰画(ネガ) の撮影年代は1850年代半ばと伝わり、被写体は鹿児島城の一部と推定されている。日本人が作製したカロタイプ写真として唯一現存するとともに、人以外の被写体が選択された日本の最初期の写真でもある。
知られているように、1857年にはダゲレオタイプで島津斉彬の肖像が撮影されている。つまり薩摩藩では、ダゲレオタイプとカロタイプという異なる技法によって、人と人ではない被写体の写真が作製された。その発想については、同藩で参照されていた和訳書と、その原本となった舶来の写真技法書に記された解説からの影響を指摘できる。
 ダゲレオタイプによる島津斉彬の肖像写真については、遺影の側面が先行研究によって指摘されている。発表者はこれに被複製性と技術的展開を加え、明治期に撮影され続けたアンブロタイプの肖像写真への連続的展開を推定している。一方、鹿児島城の紙陰画については、その後の日本における写真の展開との関連性が定かではない。この点にたいする発表者の研究は端緒についたばかりではあるものの、本発表では、現存するカロタイプ写真の 明期における位置づについたばかりではあるものの、本発表では、現存するカロタイプ写真の黎明期における位置づけを考察してみたい。
薩摩藩では、他に二点の紙陰画が作製されたようだ。いずれも現時点では現物を確認できないが、早くは1925年の『朝日グラフ臨時増刊 写真百年祭記念号』で紹介されている。一点は、端号の節句の行事を写したと推定できる陰画である。もう一点は、鹿児島城の一部を写した陰画であり、被写体や構図等から、現存するカロタイプ写真に近い印象を受ける。藩主という立場にあった島津斉彬にとって、城は、身近な撮影対象となったことだろう。動かない城は、初学者にとって取り組みやすい被写体であったとも想像される。
 上述のように鹿児島城の紙陰画は、既に日本人のなかに、人以外の被写体が選択肢としてあったことを示している。しかし当時、「日本の風景」を写真におさめたのは、主に使節団やプロの写真家をはじめとする来日西洋人であった。そこで発表者は、鹿児島城の紙陰画を「風景写真」とみなして、 膨大な風景写真が含まれる「横浜写真」との関係性を探ってきたが、制作者や受容者の違いから、比較対象とすることの困難さに直面した。したがって原点に戻り、鹿児島城の紙陰画を城という被写体で捉え直して、現存する幕末・明治期の写真をたどった。その結果、『旧江戸城写真帖』(1871年)をはじめとする城を被写体とした写真が、客観的な記録写真として撮影されている点に注目できた。
 以上をふまえ本発表では、名所浮世絵的な写真との比較も含めつつ、幕末・明治期の城の写真に見出せる記録性を考察しながら、島津斉彬にゆかりとされるカロタイプ写真である紙陰画の、写真黎明期における位置づけを検討する。

発表2
「差意識」から写真を考える −沖縄の事例から

亀海史明(沖縄県立博物館・美術館 学芸員)

 本発表は、沖縄県立博物館・美術館の所蔵作家に関する調査研究をもとに、沖縄ゆかりの写真家の証言を紹介しながら、写真について考える試みとしたい。その際、新川明の「差意識」に関する思考を手がかりとしたい。新川明は、1970年前後において、川満信一、岡本恵徳らとともに沖縄で展開されたいわゆる「反復帰論」の中心的な論客のうちのひとりである。これらの思考では、1969年における日米両政府の沖縄「返還」合意と、1970年に実施された「国政参加選挙」などのプロセスを経て、その政治決定に絡めとられてしまう沖縄の状況を痛烈に批判するものとして展開されたが、新川は「差意識」に注目し、意識の深層に刻印された、いわば内面の「差意識」を自覚することで、「〈国家としての日本〉に寄せる「復帰」の思想=忠誠意識を沖縄が歴史的、地理的に所有してきた異質性=「異族」性によって扼殺する」ことを「反復帰」の闘争として掲げた。ここで肝腎なことは、「差意識」とは、〈国家としての日本〉への「同一化」の不断のプロセスに伴う「みずからの内なる痛み」として生じるという点にあるといえる。こうした「同一化」のプロセスは時を変え立場を変えて遍在し、様々な言葉で個人を抑圧しうる。だからこそ「個の位相」から出発して「差意識」を思考することは、いまもなお充分にアクチュアリティを持った試みであるといえるのではないか。今回は、所蔵作家から石川真生、伊志嶺隆などいくつかの証言を紐解きながら、合わせて写真を考える機会とする。特に石川真生については、2021年に実施した企画展「石川真生展:醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。」によって、包括的に紹介する機会を設けることができた。「組織と人は別」と語る写真家は、被写体である個人に役を与えて写真を撮る「創作写真」といわれる手法を継続しているが、〈沖縄芝居−仲田幸子一行物語〉(1977-1991)など最初期のシリーズから演劇への関心を持っており、演じ手が「素(ルビ:す)に戻る」 隙をついた写真を多く残している。個人が役割からはみ出た隙の写真は、必ずしも油断した様子ばかりではなく、「観る−観られる」という非対称な関係性を超えて、観ているこちらに切迫しもする。写真に潜む「撮る−撮られる」という非対象に対する被写体の「裏切り」は、様々な立場に囚われ矛盾や葛藤を抱える各々の個に内在する「差意識」のたたかいの結果ともいえ、時には写真家の、ひいては観者の想像をも超えた写真となって現れてくるのではないだろうか。
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以上
日本映像学会写真研究会
代表 倉石 信乃
明治大学理工学部
〒214-8571 川崎市多摩区東三田1-1-1