第55回映画文献資料研究会のお知らせ
日本映像学会映画文献資料研究会では、下記のように、研究例会を開催いたします。会員の皆様のご参加をお待ちいたします。
記
「ネオレアリズモ再考 ベルクソニスムと現象学」
発表者:西村安弘(東京工芸大学)
発表主旨:ネオレアリズモ映画において、アンドレ・バザンとジル・ドゥルーズの理論は接続できるのか?「現実にひとつの全体性」を認めるアメディ・エイフルを参照しながら、バザンは既存の自然主義や真実主義が意識のあり方よりも主題の選択に関わっていたのに対し、ネオレアリズモが「全体意識による現実の全体描写」だと説明する。「それ(ネオレアリズモ)は現象学である」と躊躇なく認めるバザンは、しかしながら、『ウンベルト・D』(1952)が「「持続」の映画」だとも断定する。バザンのネオレアリズモ論の中では、現象学とベルクソン哲学は対立するものではなく、二つの極として共鳴し合っている。その一方、ベルクソン哲学とパースの記号論に依拠するドゥルーズは、イマージュの分類学の試みの中で、運動イマージュと時間イマージュを弁別し、ネオレアリズモを時間イマージュの代表と見なす。運動イマージュは知覚イマージュ、情動[=感情]イマージュ、行動イマージュに三分されるが、知覚イマージュの分析過程の中で、ベルクソン哲学と現象学とを対比し、「自然的知覚にある特権を与えている」いう理由から、後者の方法は斥けられてしまう。
20世紀のフランスの思想史を俯瞰すると、ベルクソニスムと現象学は、長年のライヴァル関係にあったように見える。戦前派のベルクソンに対し、実存主義のジャン=ポール・サルトル及び知覚の現象学のモーリス・メルロ=ポンティが対峙した。ところが構造主義のクロード・レヴィ=ストロースがサルトルに反対し、マルティン・ハイデッガーの現象学的解体から脱構築の概念を創出したジャック・デリダが、レヴィ=ストロースのルソー主義を更に批判した。ドゥルーズ(及びフェッリクス・ガタリ)にとって、デカルト、カント、フッサールの系列は、自我(エゴ)、主体または意識を出発点(アルキメデスの点)として演繹的・推論的に体系を積み上げようと試みる主観主義、自我中心主義の哲学であるの対して、スピノザと(『物質と記憶』(1896)以後の)ベルクソンの系列は、それらが生成されるもの(出発点でも到達点でもなく、作用され作用するネットワークの中継点)として直観される哲学であろう。ところが、岡田温司の『ネオレアリズモ イタリアの戦後と映画』(2022)は、図像学的な方法に頼りながら、アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグに通じるという「メディウム・スペシフィックの理念」を導入し、バザンとドゥルーズに共通する「解釈の参照枠」になっていると主張することで、二人の映画理論の接続を試みる。
日本独自に編纂された『グリーンバーグ批評選集』(2006)を繙いてみても、「メディウム・スペシフィック」の定義は見当たらないが、グリーンバーグがモダニズムの本質を「ある規律そのものを批判するために―それを破壊するためにではなく、その権能の及ぶ領域内で、それより強固に確立するために―その規律に独自の方法を用いること」と見なしていることは判る。興味深いことに、グリーンバーグのこのモダニズム論を参照しつつ、映画史におけるバザンの理論を位置付けた映画書が既に存在している。デイヴィッド・ボードウェルの『映画様式の歴史について』(1997)である。「基礎的な物語」や映画史の「標準版」といった概念を用いて映画様式の歴史を再考するボードウェルは、映画におけるモダニズムの理念をリッチョット・カニュードの「第七芸術宣言」(1911)に集約させながら、これを擁護・定義する「標準版」の歴史に対し、「標準版」を批判的に統合するバザンのリアリズム映画理論を「弁証法的なプログラム」と呼ぶ。そして1960年代以降の新しい波を射程におさめるノエル・バーチの理論を、「モダニズムへの回帰」である「対抗的プログラム」と見なした。つまり、バザンを「モダニストにしてフォーマリスト」と形容する岡田とは対照的に、ボードウェルは戦前に開花したモダニズムと1960年代に回帰したモダニズムの狭間に、トーキー映画の到来によってリアリズムへと先祖帰りした映画の新しい理論を創出したアンチ・モダニストとしてバザンを置くのである。
今発表では、ベルクソニスムと現象学の関係に留意しつつ、ネオレアリズモ映画においてバザンとドゥルーズの理論を接続する可能性について再検討してみたい。
日時:2023年10月28日(土)15時~17時00分(予定)
会場:東京工芸大学芸術学部1号館1階ゼミ7
東京都中野区本町2-9-5
主催:日本映像学会映画文献資料研究会(代表:西村安弘)
連絡先:nishimurimg.t-kougei.ac.jp
※申込不要